†dream-1†
「ただ今より、上演致します」
丘の上に建つ旧い洋館にある、よく磨き込まれた鏡板敷きのリビング。広々とした庭に面している大きな窓から降り注ぐ明るい陽の光を遮るように、暗幕のごとき分厚い遮光カーテンが引かれている。
久しく火の熾されていないらしい暖炉の前には、背もたれに複雑な模様が刻まれた飴色のアンティークの椅子が一脚。フロアランプが幽かな光を放ち、闇の中にぼんやりとその椅子を浮かび上がらせていた。
マヤは胸をドキドキと高鳴らせながら、その椅子に座っている。
彼女は今にも心臓が飛び出してきそうなほどの緊張をギュッと閉じ込めようとするかの如く、両手を膝の上で強く握り締め、瞬きも、身動ぎもせず、ただじっと前を見据えていた。
視線の先には繊細な装飾が施された錬鉄製の台座。その上には一メートル四方の木箱が置かれている。木製の大きな箱は淡い紫色の塗料で彩られ、前面にはそれよりも濃い色で紫のバラが一輪描かれていた。
マヤは自分でも判別しかねる感情から震えそうになる膝頭をきつく合わせ、ギュッと目を瞑った。深呼吸をして、再び目を開ける。それから彼女の隣でいつものように静かに佇んでいる男を、不安と期待の入り交じった黒い瞳で見上げた。
「聖さん……」
マヤと、彼女の長年のファンである“紫のバラのひと”を繋ぐ唯一の目に見える絆として彼女に姿を見せていた聖だったが、『紅天女』の千秋楽に大きな紫のバラの花束を持って楽屋を訪れたとき以来、今日までマヤの前に姿を現すことはなかった。
そう、まるで彼女が念願の『紅天女』を手にしたその瞬間を境にしたように、紫のバラはふっつりと途絶えてしまったのだ。もちろん、“紫のバラのひと”からのメッセージも同様に。
マヤの心の奥に潜む恐れを敏感に感じ取ったのか、聖は微かに口元を綻ばせて彼女の方にそっと手を伸ばした。あたたかな重みがゆっくりとマヤの細い肩に掛かり、彼女の不安をほんの僅かではあるが軽くした。
「ご心配なく。上演が終わりましたら、あの方にお会いになれますから。どうぞ今はこちらをお楽しみ下さい」
あの方――――聖が“あの方”と呼ぶのは、誰あろう“紫のバラのひと”である速水真澄に他ならない。永遠に解けない謎のように、紫のバラの秘密を残したままマヤとの接触を断っていた彼。
いや、彼が自らマヤとの接触を断っていた訳ではなかったのかもしれない………何故なら、彼は『紅天女』の千秋楽直後にふっつりと日本から消えてしまったのだから。
消えてしまった――――こういう言い方は少しばかり語弊がある。本当はただ単に彼が大都芸能の社長職を離れ、次世代の大都グループを担っていく者として海外赴任してしまったというだけのことなのだ。
けれどもマヤにとってみれば、彼はまるで雨上がりの空に掛かる儚い虹のように跡形もなく彼女の前から“消えて”しまった。掴もうと伸ばした指の先で、スウッと七色の光を大気に溶け込ませながら消えていく、虹。
何も言わずにマヤの前から去っていった彼の消息を教えてくれる人は、彼女の周りには存在しなかった。唯一の頼みの綱である水城でさえ、彼が現在どうしているのかはっきりとは分からないのだと言う。
『紅天女』の後継者として人々の注目を集めるようになったとはいえ、自分のようなただの一女優と、経済界の中心人物として大きなグループ企業の中枢を束ねることになる彼とでは、住む世界が違う。
そう。元々住む世界が違っていたのだ。彼と自分とでは共通点などありはしない。ましてや、彼をこの地へ、自分の元へ繋ぎ留めておくほどの縁など、始めからこの世に存在しなかったのだ。
それでも……それでも密かに夢を見ていた。永遠に醒めない夢。終わりのない夢を。たったひとつ、“紫のバラ”という名で繋がれただけの脆い絆を、揺るぎない確かな拠り所として。
でもそれは、結局のところ虹と同じく掴むことが出来ないほどの儚さでしか無かった。目覚めればそれで消えてしまう、ひとときの夢。この上なく甘い蜜の薫りを放ちながら、決して触れることが出来ない夢のように。
鋭い痛みが稲妻のように体内を駆け抜ける。その痛みを外へと逃すように、マヤの華奢な身体にブルッと小さな震えが走った。一瞬のことだったが、肩に置かれた聖の手に力が籠もる。
彼女は寡黙な彼の穏やかな瞳の奥に、昔から自分の成長を見つめ続けてきた聖なりの思いやりが宿されていることに気付き、少々ぎこちなく微笑みを返した。
どうして今になって“あの方”はあなたをあたしの元へ寄越したんですか? ――彼に訊きたいことは山ほどある。だが、彼女の口から出てきたのは全く別の言葉だった。
「あの……これは?」
目の前にある木箱を指し、小首を傾げながら聖に問い掛ける。先ほどから彼は“上演”という言葉を使っている。ところが、聖が一体何のことを言っているのか、マヤには皆目見当がつかないのだ。
「ああ、オートマタですよ」
クスリ、と小さな笑いを漏らした彼の手が彼女の肩から離れると、唐突に不安感が頭をもたげ始める。まるで、人混みの中で母親の手を放してしまった迷子のような気分だ。
「オート、マタ?」
聞いたことのない言葉。縋るように聖の言葉をなぞる。
「そうですね、簡単に言うと“自動からくり人形”、というところでしょうか」
この箱の中に人形が入っているというのだろうか?
「自動……からくり人形?」
聖は胸ポケットから小さな銀色の鍵を取り出すと、箱の上部にある黒い鍵穴に差し込んだ。
「あの方から、あなたへのプレゼントです」
カチリ、と微かな音を立ててゆっくりと鍵が回転する。彼は再び鍵をポケットにしまい、箱の左右にある留め金を外してから前面を覆う板を下ろした。
「あの人からの……」
フロアランプの灯りが絞られる。
「どうぞ、短い夢のひとときを」
――夢のひとときを
聖の口から零れた落ちた言葉がマヤの鼓膜を擽り、胸が狂ったように早鐘を打ち出す。そして、光と影が織りなす不思議な時間の幕が今、静かに上がった。
…to be continued