雪の降る日の朝は、妙に静かだ。静かなのに聞こえてくるのは―雪の音? それを〝音〟と言うのか分からないが、子どもの頃、冬になると心待ちにしていたのは、こんな朝だった。いつものような、喧噪もざわめきも聞こえてこない。
静寂に包まれた、朝。
重たい瞼を擦りながら、不思議な気配に布団の中で目を覚ます。その静けさからくる訳の分からぬ興奮と期待感に、眠気は一気に吹き飛んでしまった。寒さを忘れ、慌てて布団から這い出て窓を大きく開け放つ。
目の前に広がるのは、一面の銀世界。
見慣れたはずのありふれた景色なのに、雪に覆われただけで一変してしまう。汚れのない白一色の世界は、新鮮な驚きで全身をすっぽりと包んでくれた。しんしんと降り積もる真白い雪が全ての音を吸収しているのか、音のない光景だ。
真新しい世界。
何かが起こりそうな、何かが待っているような、微かな予感が胸を弾ませる。寒いのに、暖かい。古いのに、新しい。哀しいのに、嬉しい。そう、雪の降る日の朝はそんな相反する奇妙な感覚に包まれる。パジャマのまま、裸足で外に飛び出した。
オフクロが「ちゃんと着替えて暖かくしないと、風邪を引くわよ!」と大きな声で叱るけれど、そんなことは一向に構わなかった。おれは誇らしげに、誰も足を踏み入れていない雪の上を喜び勇んで跳ね回った。
陽の光は見えない。大地と同じように、厚い雲に覆われている。妙に明るい灰色の空を見上げ、口を大きく開けてみた。冷たい雪の欠片がひとひら、ふわり、と舌の上にのる。何にも汚されていない、真白い雪。全てのものを清めてくれるような、真白い雪。
―雪は好きだ
偶然、雪の降る日に街で出逢ったマヤ。背伸びしてイチゴ柄の傘を差し掛けてくれた。小さな傘に囲まれたふたりきりの空間、夢のようなひととき。誰にも話したことの無いことを彼女に話したのは、これが何度目だったろうか?
マヤといると、何故か素直な気持ちになれる。自分を偽ったり、装ったりしなくていい。素のままの自分に戻れる。今まで知らなかったような本当の自分に出逢ったような、そんな感覚。汚れを知らない、真白い雪のような心になる。
庭一面に広がる新雪の上を裸足で歩くと、サクサクという小さな音と共に点々と足跡が出来た。白に彩られた世界に初めて形が作られる。白くて冷たい世界の中で、そこだけが仄かなぬくもりを帯びた。
自分が付けた、跡。
ふと立ち止まり、振り返る。目に映るのは、小さな足跡。今の自分と同じように何の力も持たない、小さな足跡。直ぐにまた雪で覆われ、為す術もないまま儚く消えてしまうだろう。
再び、灰色の空を見上げる。一体どこから湧き出でてくるのか、次から次へと音もなく降り積もる雪が自分の髪に、顔に、肩に、白いヴェールを作り、そのまま白銀の世界に溶け込んでいきそうになった。
不意に、視界の端をピンクの物体が横切る。
視線を空から真っ直ぐ前に向けると、ピンク色のイチゴ模様の傘がゆらゆらと揺れていた。何故だか触れたくて、確かめたくて、手を、そっと伸ばす。すると突然、目の前が赤一色に染まり、何かヒヤリとしたものが唇に触れた。
…to be continued