桜~double bill・水城

 

「……桜?」
 四月に入り、殊のほか厳しかった寒さも今ではすっかり和らいでいた。窓の外の陽射しはやわらかくアスファルトに降り注ぎ、春の訪れを告げるべく名前の分からない小さな草花がそのアスファルトを押し上げている。
 春の恩恵に与っているのは何も草花だけではない。水城もまた春の歓びを享受していた。大都芸能社長室に隣接する秘書室の自分のデスクの上に、大きく開け放たれた窓から桜の花びらが一枚、ふわり、と舞い降りてきたのだ。
 そっと指先で摘み、手のひらに載せる。
 しばらくその小さな春の贈り物を眺めた後、彼女は満ち足りた想いで立ち上がると窓辺で立ち止まった。春の午後はゆったりとした時間の流れの中にある。眼下に広がる通りは、既に甘い春の色に染まっていた。
 冬の間に悉く葉を落としていた街路樹も淡い萌黄色の新芽を膨らませ、春のやわらかな水色の空の下、可愛らしい色合いを添えている。日頃の慌ただしさはどこかに消え失せ、いつにないほど穏やかな時間だった。
 視線をそのまま少し遠方へ移すと、近くの公園に桜並木が見えた。満開をほんの少し過ぎた頃だろうか? それでも見頃であることには変わりはない。その佇まいはどこか控えめで、凛とした風情を漂わせている。
 自分を激しく主張することなく、春の景観の中に寄り添うように慎ましやかに花を咲かせている。きっと、あの桜の樹の花びらが風に運ばれてここまで来たのだろう。
 水城は窓枠に手を掛け大きく身を乗り出すと、手のひらの上で楽しげに踊る小さな花びらを自然の元へ帰そうとするように、窓の外に翳した
 一陣の風が吹く。
 ゆるやかな螺旋を描くように。
 気紛れな風は彼女の手のひらから容易く花びらを攫い、再びふわり、と宙に舞わせた。青いキャンバスに桜色の破片が吸い込まれていく。
「もう、すっかり春なのね」
 こんなに気持ちの良い春を迎えたのは、何年ぶりのことだろう。今日は多少無理してでも定時で上がって、あの桜の樹を見に行こう。水城は窓枠に両手を突いて目を瞑り、春の穏やかな大気を胸いっぱい取り込んだ。
 どこかで小鳥が囀っている。ウグイスの鳴く声も聞こえた。瞼を閉じたまま、顔に当たるぬくもりの恩恵を楽しむ。窓から吹き込んだそよ風が頬をやさしく撫でている。この甘い香りは何の花だろうか?
「水城くん、熱いコーヒーを淹れてくれないか?」
 突然、社長室のドアが大きく開き、隙間からその部屋の主がひょっこりと顔を出した。
「―ああ、それからミルクティーも一緒に。砂糖も忘れずに頼むよ」
 彼は半ば笑いを噛み殺しながら、慌てて付け足した。部屋の奥から「砂糖はなくても大丈夫です!」と春風のように軽やかな声が追い掛けてくる。
「はい、かしこまりました。直ぐにお持ち致します」
 ふと何かを思い出したように水城は口元に小さな微笑を浮かべ、幾分名残惜しそうに窓辺から離れた。

 

…to be continued