極度の疲労から眠気も食欲も殆ど無い。この前食事をしたのはいつだったかさえ思い出せないほどだ。こんな風になるなんて、実に久しぶりのことだった。確かに余計なことなど考えられないよう意図的に自分を追い詰めはしたのだが、今度の仕事は予想以上にきつかった。

 六月の宵はあたたかく、芳しい。緑がざわめく庭の隅では、小さな蔓薔薇が真っ赤な花を撓わにつけてアーチ状に垂れ下がっていた。その向こう側に視線を移せば、白い蔓薔薇も咲いているのが目に入った。やわらかな風が吹く度に、さわさわと葉が擦れ合う音が耳に心地よく響く。
 聖はバーボンを片手にふらりとテラスへ出ると大きなカウチに腰掛け、次第に深まりゆく闇を眺めながら煙草に火を点けた。肺の奥深くまで届くようにしっかりと吸い込む。漸く海上から顔を出したばかりの輝く月の淡い光に照らされて、グラスの中の氷が幽かに反射した。
 目を瞑る。不思議なほど静かな夜だった。鼓膜を震わせるのは、打ち寄せる波の音と植物たちの囁きだけ。淡い月の光は目を灼くことなく、きつく閉じられた瞼をやさしく撫でた。目を瞑る。さらに強く。今夜はどんなことをしたって眠れないと分かってはいるが、それでも構わなかった。
 真昼は苦手だ。あからさまで不躾に照りつける、容赦ない太陽の陽射しが嫌いだった。だいいち、太陽の光は必ず陰を作るのだ。全てのものを陽と陰、表と裏とにくっきり分けてしまう。背中合わせに存在してはいても、闇は光を超えて光に成り代わることは出来ない。そう、まるであの人と自分のように―。
 太陽の明るく強い陽射しが、片側だけ残された瞳をじりじりと灼いた。真昼の光の中では、暗闇に身を潜めているはずの自分の心が不用意に晒されてしまうことがある。だからそれを避けるために、いつも色の濃いサングラスを掛けていた。とりわけ、あの少女に逢うときは注意が必要だった。
 夜はいい。なかでも、自分を取り巻く闇のこのベルベットのような美しさが好きだった。闇は誰にも分け隔てなく下りてきて、傷付いた心と身体を匿うようにやさしく包んでくれた。その闇の深さと濃さとで、煩わしいことも何もかも全てを覆い隠してくれるのだ。
 聖は肺に溜まった膿を絞り出すような深い溜め息を吐くと、バーボンをひと息に呷った。強いアルコールが臓腑を通り、ゆっくりと身体の芯まで染みていく。それから微風に靡く髪に長い指を滑らせ、波の音に耳を傾けた。単調な、それでいて快いリズムが、乱れた心を癒してくれるようだった。

 月の光がやさしく差し込むこんな夜は、意識だけが遠い過去を彷徨い始める。

 

…to be continued