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 パーティー、パーティー、パーティ…

 マヤは重い溜め息をついて小さく首を振った。これから退屈な時間が始まる。この上なく退屈で、怠惰な時間が。自分は舞台女優なのだから、稽古場と劇場の往復をしていればそれで良いのではないか、と思うのだが、どうやらそうはいかないらしい。
 芸能界で必要なのは"人脈を作ること"だと、水城にも散々言われている。顔と名前を売るのも女優にとっては大事な仕事なのだ。だが、自分はそういった場にはいつまで経っても慣れない。

 ほとんど"壁の花"状態に近い。いつも一人、パーティーの華やかな喧噪の中に佇んでいる。煌びやかに着飾った人々の姿を遠い世界の出来事のように眺めているのは、まるで、土砂降りの雨の中に一人取り残されているような感じだ。
 それでも、こうして出席してしまうのは、真澄の姿を一目でも見たいからだった。彼は来るかもしれないし、来ないかもしれない。とにかく忙しい人なのだ。鷹宮紫織と婚約した彼は大都芸能の社長職の他に鷹宮関連の要職に就き、以前にも増して休み無く働いているらしい。

 自分でも本当に未練がましいと思う。真澄はもう、自分には手の届かない人なのだ。いや、もともと彼と自分とは住む世界が違っていた。そんな彼と親しく会話が出来ただけでも、ありがたいと思うべきなのだ。
 ましてや彼は長年に渡り、匿名で自分を援助し続けてくれた。真澄は純粋なる好意の上で行ってくれていただけなのに、自分が勝手に彼のことを好きになったのだから。

 紫のバラ――それ以外にあたしと彼との絆はない。だから、自分が『紅天女』の後継者に選ばれたとき、そのことを喜ぶより、これで彼との絆が切れなくてすむ、と思ったのも事実だった。

 今日も虚しい希望を持ちながら会場をゆっくりと見回す。おかしなことに彼の会社である大都芸能では殆ど真澄を見掛けることはないのに、こういったパーティーでは二回に一回は姿を見ることが出来る。
 たったひと言ふた言、挨拶程度の言葉を交わすだけで幸せな気持ちになる。その束の間の想い出を大事に胸に秘めて、一人ゆっくりと繰り返し反芻する。この胸の中の想いは絶対に誰にも知られてはいけない。

 広いフロアをゆるゆると漂いながら、意識だけは常に入り口へ集中させている。いつ彼が現れてもいいように…。

 

 

 宴も半ばを過ぎた頃、ようやく、会場の入り口に真澄が姿を見せた。真澄はこちらに背を向けて、誰かと話をしている。その瞬間、マヤは、どこにいてもどんな角度から見ても、一目で彼を見分けられるようになった自分に気付いた。
 肩幅が広く姿勢の良い後ろ姿が、ゆったりとした足取りで歩き出す。威圧的な雰囲気があるが、でもどこかに孤独な感じが漂っている。姿は見えるけれど、触れることは出来ない透明な膜を周りに張り巡らせているような感じだ。

 速水さんは幸せじゃないんだろうか? もうすぐ美しい妻を手に入れ、権力もその手中に収める、彼――

 幸せじゃないなんてことはないはずよ。だって、速水さんは"魂のかたわれ"の紫織さんと婚約して、大きな仕事もして。いつもと違うように見えるのは、忙しすぎて疲れているだけ。そう、疲れているだけよ。
 だから今日もいつものように顔だけ出して、すぐに帰ってしまうはず。自分はその姿を遠くから見ているだけでいい。見ているだけで…。

 真澄はまだマヤに気付いていない。このまま立ち去ろうと思えばそうすることも出来る。静かに会場を去ればいい。
 先ほどからそう自分に言い聞かせているのだが、心の底ではマヤにも本当のことが分かっていた。自分に気が付いて欲しい、自分を見て欲しい、自分だけを見つめて欲しい。

 すぐにボーイがシャンペンを運んできた。真澄は慣れた手つきで銀色のトレイにしなやかな指を伸ばし、グラスを取った。
 一瞬、息が詰まりそうになった。あの長い指で喉元に触れられたらどんな感じかと、そんな考えが頭を掠めたからだ。力強く、だが、やさしく繊細な愛撫に違いない…。
 ふと浮かんだ馬鹿な思いつきを、マヤは笑い飛ばそうとした。どうしてそんなことを考えたのだろう。そんなこと、この世界がひっくり返ったってありはしないのに。

 口元で小さく自嘲的に笑う。

 そのとき、真澄が目を上げた。真っ直ぐにこちらを見ている。マヤは息が詰まり、顔を背けられなくなった。じっと見つめる瞳は不思議な深さで、まつげも濃く長い。マヤは微笑んだが、唇の端がかすかに震えたに過ぎなかった。
 真澄の強い視線に捉えられ、マヤは一層激しく身震いをした。絡んだ視線を逸らすことが出来ず、マヤは生まれて初めて、理解出来ないある力に怯えた。
 まるで、心と身体が麻痺したように動けない。指先が細かく震え出し、心臓だけが激しく鼓動し始めた。マヤは感情が露わになってしまう目を急いで伏せた。

カシャーン

 口を付けることもなく手のひらで温まっていたグラスが、いつの間にか手からこぼれ落ち、大理石の床で派手な音を立てて割れていた。フロアにいる全員の目が一斉にマヤに向けられる。

「失礼」

 真澄は周囲でざわざわし始めた男たちを目で黙らせ、紫煙と人の渦巻くフロアをマヤの方に近づいてきた。忍び寄ってきた、といった方が正確かもしれない。無駄のない動きで獲物に忍び寄る黒い豹のようだ。
 しなやかな身体を黒い保守的な三揃えに包み、深い色合いの琥珀色の瞳はこちらを真っ直ぐに見据えている。天にも昇るような喜びと、地獄に突き落とされるような苦しみに同時に襲われながら、マヤは動くことが出来なかった。

「大丈夫か?」

 豹は今、その危険な匂いが嗅げそうなほど近くに来ていた。きつく巻きすぎたバネのように胃の中がおかしくなった。マヤは口を開けたが声が出なかった。立ったまま身体が硬直して、息が止まりそうになる。

「おい、大丈夫なのか?」 

 真澄はどこかイライラしたような声で詰問した。耳の中でドクドクと血が脈打つのが聞こえる。マヤは口をぱくぱくさせたが、言葉は出てこなかった。彼女は息を呑み、声を上げて泣き出したい思いを必死で抑えた。
 こんな気持ちを昔の詩人達は片想いと呼んだに違いない。愛する人の側にいられるのなら、何を犠牲にしても構わない――命も、プライドも、全て投げ出したって惜しくはない。たとえ報われない恋と知っていても…。

「マヤ?」

 熱い塊が喉元に込み上げてきた。マヤは後ずさりした。ダメ、ここで自分の本当の気持ちを悟られたらダメ。大きく息を吸うマヤの胸元が妖しく上下した。

「……大丈夫です。お騒がせしてすみません」

 マヤは言った。精一杯落ち着いている振りをしたが、ホンの少しだけ声が上ずってしまった。

「久しぶりだな。元気だったか?」

 彼女は小さく笑った。が、真澄がニコリともしないので、上ずった声で続けた。

「ええ。は、速水さんは…少し、お疲れですか?」

「ああ。いや…いつものことだからな」

 真澄は僅かに目を見開いた。

「あまり、無理しないで下さいね。お仕事ばかりしていると紫織さんに愛想をつかされますよ」

 マヤは真面目くさって真澄に言った。彼は長い、苛立たしげな溜め息をつく。

「…………」

 マヤの目は急に光を失った。

「あっ、ごめんなさい。生意気なこと言ってしまって」

 真澄は口を固く結んでから、例の唐突で人を小バカにしたような笑い声を上げた。

「クックックッ。いや、別に構わないよ」

 何故かがっくりとしてしまったのは、安堵からだろうか、失望からだろうか? それとも、その両方?

「そ、それじゃ、あたし失礼します」

 マヤが横を通り過ぎようとすると、真澄がスッと手を伸ばした。マヤは身をかわそうとしたが、彼は彼女の肘をそっと掴んだ。その感触が炎のように全身を駆け抜け、マヤはハッと彼を見上げた。
 一瞬、真澄の顔が険しくなった。だがすぐに彼は表情を和らげ、唇の端を歪めてすまなそうに微笑むと、マヤの腕を放してネクタイを直した。

「帰るのか?」

「はい。そろそろ帰ろうかと思っていたところですから」

 真澄は目を細めた。深刻に考え込むときの癖なのだ。

「――送っていこう」

「え? でも、速水さんはいらしたばかりで…」

「いや、もともと来るつもりはなかったんだ。顔だけ出して、すぐに帰ろうと思っていたのでね。丁度いい」

「でも…」

 真澄は自嘲するように眉を上げた。

「おれと――一緒に帰るのはイヤか?」

 微かにはにかんだような声の響きに、マヤはつい心を惹かれそうになった。が、マヤはグッと自分の気持ちを抑えつけて、そんな心の揺れをこれっぽっちも見せなかった。

「いえ、そういうわけでは」

「それならば行こう」

 真澄はマヤの返事も待たず、数人に挨拶をしてから、マヤの背を押して歩き出した。グラスをウエイターに渡し、手際よく客を掻き分けて進んでいく。話しかけてくる人がいるが、簡単な言葉を返して上手くかわしてしまう。
 彼の手は本当に軽く触れているだけなのに、背中が燃えるように熱い。マヤは目を閉じて片手で顔を覆った。どうすればいいのか分からない、どうにかしたいのに。
 真澄の額に掛かる髪、端正な顔、スリムな長い脚。ビロードのように濃密な夜の雰囲気の中で、それらは危険なほど親密な匂いを放っていた。

「もしこの後、用事がないのならば少し話が出来ないか?」

 やさしいが、陰りのある声だった。マヤは思わず彼の顔を見た。だが、月明かりの陰になってよく見えない。

「お話…ですか? なにかありましたか?」

 自尊心から彼の視線を避け、さも関心がないかのように訊ねる。

「ああ」

 真澄は乾いた微笑を浮かべて囁いた。マヤは何故か胃のあたりに激しい疼きを感じた。

 

…to be continued