人いきれで酷くムッとしているパーティ会場の人混みと喧噪を擦り抜けて、マヤはひとり窓辺に佇み今にも雨の降り出しそうな灰色の空を眺めていた。ぼやけたモノクロームの画面のような世界が窓の外に広がっている。まるで混沌とした自分の心の中を覗いているようだ。
 『紅天女』の後継者となってから、自分には似つかわしくないと思える、このようなパーティにまで出席せざるを得なくなっていた。元よりパーティ独特の華やかさや賑やかさが苦手ではあったけれど、今日のパーティには特に出席したくなかった。それは―あの人が出席するからだ。
 愛して止まない、未だに自分の心を捉えて放さない、あの人。そう、大都芸能の社長である速水真澄。彼は彼女が『紅天女』となるのを待ち兼ねていたように、鷹宮紫織と結婚した。もちろん、最初から何かを期待していた訳ではなかった。元々、住む世界が違う人だったのだから。
 『紅天女』初日の終演後のこと。阿古夜が完全に抜けきらないままでいるマヤの楽屋を、真澄は紫のバラの花束を手に携えて訪れた。この特別な日に彼の姿を目にして、彼女は堰を切ったようにこれまでの感謝の気持ちと、ずっと胸の奥に秘めていた想いを打ち明けていた。
 何故なら、それはマヤがずっと夢に見ていたことだったからだ。ところが彼は困ったように肩を竦めると、小さな子どもを諭すように静かにこう告げた。長い間、〝紫のバラのひと〟として励まし支えてきたのは、純粋に彼女の演技に対する一ファンとしての気持ちからである、と。
 全てが終わってみれば、ただそれだけのこと。夢やあこがれを現実と混同して甘い砂糖菓子のように派手に飾り立て、浅はかな願いに胸を焦がしていた自分は愚かだった。マヤはひとしきり涙を流したあと、その紫のバラと一緒に自分の想いを永遠に封印した。
 今日、あの美しい人は一緒じゃなかった。いつでも、どのパーティでも真澄の隣で艶やかな微笑みを浮かべながら寄り添う紫織のことは、そういった催しにはあまり出席しない彼女の耳にさえ否応なしに入ってきた。美男美女のふたり。相思相愛のふたり、似合いのふたり。誰もが羨むふたり。
 おしどり夫婦という表現がピッタリくるふたりなのに、今夜はどうしてひとりで出席したのだろうか? 何故ふたりじゃないのだろう? もしかしたら紫織さんに何かあったのだろうか? チラリと頭に過ぎった小さな疑問の数々を、マヤは急いで振り払った。
 誰にも見つからないように大きなフランス窓から抜け出して、明かりのないバルコニーへと忍び足で歩を進める。屋外に足を踏み出したその瞬間、生暖かい風が彼女の黒く長い髪をやさしく撫でた。樹々が何かを訴えるように激しくざわついている。薄暗い春の宵に、心はさらに孤独感を深めていった。
 誰もが手放しで賞賛する演劇界幻の名作『紅天女』。マヤはこの公演によって、世間にも認められる女優の仲間入りを果たした。観客は常に挙って熱病に罹ったような表情を浮かべ、天性の女優としての彼女を迎える。狂信的なファン、熱心な後援者、無条件で褒め称える人々。
 それでも―どれひとつとして〝紫のバラのひと〟の代わりにはならなかった。マヤが求めているのは、もっと別のもの。心の底から欲しているのは別の人。名声や成功は心の隙間を埋めてはくれなかった。反比例するようにどんどん空虚になっていく自分を、ただぼんやりと眺めていることしか出来ない。
 近頃では舞台の上でだけ、生きているように感じるほどだ。役がなければ屍同然。一歩舞台の外へ降りると、そこは永遠に続くかと思われるほど暗くて濃い闇に覆われていた。ちょうど今、目の前のこの空を覆い尽くしている黒い雲のように、決して晴れることはないのだ。

 

…to be continued