マヤ~桜の若木が見せた夢
こんな夢を見た。
うららかな春の宵。蒼白い月の光が地上にやさしく降り注ぐ部屋で、あたしは綻び始めたばかりの桜の花を速水さんと眺めていた。庭に一本だけある染井吉野の若木だ。まだ針のように細い幹と鞭のようにしなやかな枝は生命力に溢れ、薄紅色の可憐な花びらが風にそよいで揺れている。
数年前にそこへ植えられたというこの桜は、数寄屋造りの古い屋敷の縁側から眺められるよう、主がそこに植えさせたのだということだった。さわさわと頬を撫でてゆくあたたかい風が細い枝先を優美にしならせ、小さな花弁を震わせる。いたずらな風に弄ばれた花々が擦れ合い、闇に微かな音色を奏でた。
気持ちの良い春の夜だった。
もう何年かしたら、華奢なその身に疎らな花を纏っているこの樹も大地にしっかりと根を張り、四方八方に伸び伸びと大きく両手を広げ、花見をする人の目を楽しませてくれることだろう。でも、今はまだあたしたちふたりが眺めているだけだ。
ふたりはひと言も言葉を発することなく、ただ黙って桜を眺め続けている。どうしてここにいるのか、何のためにここにいるのか、何故速水さんと一緒に桜を眺めているのか、全く分からない。それでも、ふたりでこうしていることが当たり前のように思えた。
だいいち、あたしは庭の桜しか見ていないのだから、彼が本当にそこにいるのかどうか確かめてなどいない。ただ、なんとなく隣に速水さんがいるような気がするだけだ。頭をほんの少し動かすか、身体をちょっと傾けるだけで、簡単に確かめることは出来るだろう。
でも、何故だかそうしてはいけないような気がしたのだ。行動に移した途端、指先が図らずもシャボン玉に触れてしまった時のように全てが跡形もなく消えてしまうということが、無意識の内に分かっていたからなのかもしれない。
いずれにしても、速水さんの姿を確かめることより彼の存在を全身で感じることの方が、この時のあたしにとっては大切なことだった。
闇が深まり、月の光が一段と蒼さを増したように思えた。
桜の樹も花も月光を浴びて白く色褪せ、何もかも銀色に輝いてこの世のものとは思えない。藍色の夜空にはちらちらと星が瞬き、灰色の小さな雲が狼煙のように漂っている。幽玄な世界の中で、心地好い静けさがふたりを包んでいた。
このまま永遠に、この〝時〟を凍らせてしまえたらいいのに。他の誰も存在しない、ふたりだけの世界に閉じこめられてしまえば。そうしたら、難しいことは何も考えずに速水さんのことだけ考えていられるのに。自分勝手な想いから、ついそんなことを考えてしまいそうになる。
…to be continued