「あ……雨」
 新しい台本を貰うといつも夢中になって読み込んでしまう。いつの間にか時間は矢のように過ぎ去り、あたしを空想の世界に置いてけぼりにした。空想の中は居心地がよく、ゆったりと身を委ねている内に周りが見えなくなり、時間が経つのも忘れてしまうのだ。
 頁を捲る。真新しい台本の中には、まだ見ぬ新しい世界が待っている。初めて会う人物、初めて出会う物語。この手のひらの中には無限に広がる世界がある。あたしはその世界でホンの数時間だけ全く別の人生を駆け抜ける。
〝北島マヤ〟という人間の人生の主役は、他ならぬ自分自身だ。あたしは一度きりの人生を駆け出しの〝女優〟として歩き始めたばかりだった。ところが、この〝女優〟という仕事はいろいろな人物のいろいろな人生を生きることが出来る。
 短い時間の中に凝縮された様々な人生。時間も空間も超えて、役の中では男にも女にも、お姫様にも、先生にも、大統領にも、殺人犯にだってなれる。そう、舞台の上でならば、どんな人物にだってなれるのだ。何の取り柄もない自分が唯一、夢中になれたもの。空想の世界の中では、どこまででも自由に飛んで行けた。
 自分でもどうしてここまで夢中になってしまうのか、よく分からない。母さんにだって、いつも叱られてばかりだった。夢と現実の区別が付かないから? それとも、非現実世界に憧れているから? 答えはまだ見つからない。それでも、物語の中に入り込んでしまう自分を止めることは出来なかった。
 だから、窓の外ではかなり激しい雨が降っているということに気が付いたのは、夜も更けてからのことだった。マヤは本来の目的を果たすことなく開け放たれたままになっていた窓際のカーテンの所まで行くと、ぼんやりと外を眺めた。しっとりとした闇に覆われていたが、薄暗い街灯の下では雨脚が強いのが見て取れた。
雨はいつも、マヤに懐かしくてちょっぴりほろ苦い想い出を運んでくる。
初めて真澄に紫のバラを貰ったのは、『若草物語』のベス役がなかなか掴めず、一晩中雨に打たれて高熱を出したまま舞台に立った時だった。もちろんその時は初めてファンから花を貰ったのだと信じていたので、彼が贈り主だなどとは夢にも思っていなかったのだが。
 それから、《劇団つきかげ》の命運を決めることになった、全日本演劇コンクール全国大会。あたしはたったひとりで皆の帰りを待っていた。コンクールに出場出来ないように妨害したのは真澄の仕業だと思い、声を掛けてくれた彼に酷いことを言ってしまった。
 行方不明の母さんを捜し歩いていた時も雨だった。『夢宴桜』で急遽千絵として舞台に立ったあと、亜弓への劣等感から真澄に当たり散らした。その挙げ句、雨の中を傘も差さずに劇場から飛び出したのだ。
 母さんが死んだ日も雨が降っていた。自分が持っていた僅かばかりの夢や希望、それから可能性。その何もかも全てを失って、真澄への憎しみだけを胸に抱いたまま、無理矢理速水家へ連れ戻された時も雨だった。
 交通手段もストップするほどの激しい台風の中、彼は約束を守るために、たったひとりの観客として初日に足を運んでくれた。決して良いとは言えない状態の中、最後まで席を立たずに観てくれた。青いスカーフ……そう、あの青いスカーフが〝紫のバラのひと〟は速水真澄であると教えてくれたのだ。
 そして―梅の谷。ふたりで一晩中身体を寄せ合って過ごした、社務所の夜。あの時はお互いに聞きたくて聞けなかったこと、言いたくて言えなかったことばかりだった。雨の音を聴きながら真澄の広くてあたたかい胸に抱かれ、安心して深い眠りに落ちていった。

 

…to be continued