春の足音が聞こえる
密やかな足音が
目を閉じて
耳を澄まして
心を静めて
春の訪れをひとり、待つ
*
花影~甘い劇薬
天上高く煌々と輝く月の光が描き出す花影に
ほのかに浮かび上がる
儚い夢の残り香
今、甘い香りを纏うひとに手を伸ばせば
夢はたちまちその姿を変える
光沢を抑えた深紅のマニキュアに縁取られた白い手が、視界を遮るようにスッと目の前を横切る。次いで真澄が向かう執務机の上に何かが置かれた。いつもと違って無言のまま彼の秘書が差し出したのは、薄紅色をした一通の封筒だった。
「何だ?」
既に自分の抱え持つ苛立ちを隠そうという努力を放棄したのか、真澄はことさら不機嫌な様子で低く声を発した。彼は先ほどから熱心に目を通している書類から顔を上げようともせず、視線だけをチラリとそちらへ走らせる。
「どうやら招待状のようですわ」
水城は真澄のそんな振る舞いには慣れたもので、少しも怯んだ様子を見せず淡々と言った。
「招待状? 何の?」
気のない応答を水城に返しながら、彼が神経質に書類をパラパラと捲る音が静かな室内に響く。彼女は一旦机上の封筒に視線を落としその存在を確かめてから、再び真澄の顔を見て些か躊躇いがちに言葉を続けた。
「今晩、是非とも桜の花を観にいらっしゃらないか、と書かれておりますが」
そこで漸く彼は書類を捲る手を止め、眉間に深い皺を刻んだまま顔を上げた。
「桜の花? 一体誰からだ」
春爛漫。
今、まさに桜の花は満開となり、都内各地で見頃を迎えている。右を向いても左を向いても桜色一色だ。真澄も「観桜会」と称して酒を飲むために集まるくだらないパーティに連日のように招待され、少々辟易していた。
断るのが難しいもの、事業の関係で断れないものだけに、ほんの僅かな時間のみ顔を出すという日がここ一週間ばかり続いていたのだ。水城もそのことを充分承知しているはずなのに敢えて招待状を差し出すとは、彼が訝るのも尤もなことだった。
水城の話によると、招待状の主は先月開かれた各界のトップたちが集まる退屈窮まりないパーティで紹介された老人だという。その時の様子を真澄の傍に控えていた彼女の口から聞いている内に、彼にも朧気ながら記憶が蘇ってきた。
誰に紹介されたのかは何故かふたりとも憶えていなかったのだが、その老人は顔中に深い皺が刻まれた齢九十を超えようかという風貌で、艶のある飴色の桜材で造られた杖を携えていた。その年齢にしては随分と大柄で、腰さえ曲がっていなかったら真澄と同じくらいの背丈なのではないかと思えた。
人は齢を重ねると子どもに還る、と言うが、〝櫻庭〟と名乗ったその男からは千年も昔から生きてきたような趣深い枯れた味わいと、まだ生まれたばかりの赤子のように純粋な輝きを秘めた不思議な印象を受けた。
他の出席者たちが私利私欲のために躍起になってあちらこちらで熱弁を奮っているのに対し、飄々とした風貌の彼の口から出てくるのは終始、一本の桜の樹の話だけだった。
自邸の庭に植えられた、一本の古い桜の樹。
他の人間が話していたら、屋敷や車や宝石など、富や財をひけらかすためのただの自慢話と同じようにウンザリしていただろう。だが、どうしたことか櫻庭の話は少しの嫌味も誇張もなく、真澄の耳にスウッと忍び込んできたのだ。
その時の彼との会話はこういうものだった。
…to be continued