その車は、どこから見ても実に彼らしい車だった。頑丈そうな太いタイヤ、滑らかで力強いデザイン、豪快なエンジン―雄牛のように巨大なアストンマーチン V12 Vanquish S だ。世界有数の速いスポーツカーだが、乗りこなすにはかなりのテクニックが必要になる。
 颯爽と車から降りてこちらに向かってくる真澄の優美な動きに目を奪われたマヤは、息を詰めて彼の行方を追った。頭の傾げ方、自信に満ちた足取り、小さな仕草の全てが洗練されている。喜びを隠せないでいる彼女を認めて、真澄の口元が不意に綻んだ。
 彼は広い肩を優雅に包む、仕立ての良いグレーのスーツに着替えていた。淡いグレーのコットンシャツにピンクのシルクのネクタイを締めて、どこから見ても裕福な大物実業家そのものだ。それでいて……洗練された外見の陰に、どこか野性的な男らしさを隠している。
 真澄には、マヤが知っている多くの―いわゆるハンサムな男優たちが羨むような存在感があった。それは彼に元々備わっている支配者だけが持つ雰囲気や、権力を行使することに慣れた男の威厳によるもので、その上、冷静沈着さが加わり、真澄を一般大衆とは別格にしていた。
 眩しい陽光を浴びて艶やかなブルーサファイアに輝くドアを真澄が開けると、マヤは彼に促されるまま助手席に乗り込んだ。内装も素晴らしかった。パイピングを施した革張りのシートは格別の座り心地でしっとりと身体を包み、胡桃材のダッシュボードには一般的なスポーツカーにありがちなデジタル計器ではなく、実用的な丸い目盛盤が並んでいる。
 彼女に続いて真澄も運転席に乗り込んだ。彼に無駄な動作はない。車だけではなく身体の動きまでが滑らかで、流れるようだった。真澄が静かにイグニションキーを回すと、喉を鳴らすようなエンジン音が響いた。きっと、彼に触れられた女性もこんな声を漏らすのだろう。
 力強い振動が小刻みに身体に伝わってくる。これ見よがしの大音響ではなく、抑えたエンジン音を響かせながら、車は滑るように走り出した。リズミカルにギアを切り替えながら幹線道路に出た真澄は、巧みなハンドル捌きで首都高速に乗り、真っ直ぐ追い越し車線に入った。持てる性能の半分も発揮しない内に、車は時速百キロに達した。
 真澄は運転に集中し、視界に入るもの全てを追い抜いていく。野性的な外見に似合わず驚くほど乗り心地がいい車は、スムーズに高速道路を疾走する。マヤは隣にいる彼の存在だけを意識しながら、慌ただしかった一日の疲れからかいつの間にかウトウトしていた。
 目を閉じると、真澄の身体が発散する動物的なぬくもりと匂いに様々な感覚が刺激され、抑えがたいほどだった。車内をゆったりと包み込むように流れているベースが奏でる低いメロディが静かな眠りを誘うようで、次第に目を開けているのが難しくなっていた。
 彼女は夢の世界を漂い始めた。官能的な夢の中でマヤは真澄の腕に抱かれ、ふたりは激しい欲望に飲み込まれていた。彼に唇を奪われ、服を脱がされて……。カッと身体が熱くなり、ハッとして目を覚ました。心臓をドキドキさせながら視線だけをそっと動かし、睫毛の奥からチラリと真澄を窺った。
―あたしがどんな夢を見ていたのか、速水さんは知っているんじゃないかしら?
 咄嗟にそんな考えが浮かんだが、彼は真っ直ぐ前を見つめ、周囲の車の動きに気を配りながら、自信に満ちた手つきで革のハンドルを操っていた。
「まだ着かないの?」
 なんとなく面映いような、居たたまれないような妙な気持ちがして、そわそわと車内を見回す。
「もう直ぐだ」
 ホッと安堵の溜め息を零して再びシートに身を沈めた彼女の滑稽な様子に真澄は唇の端を僅かに上げ、漏れ出す笑いを噛み殺した。

 

 

…to be continued