「真澄さまは今でもあなたのことを愛しているわ。もう、ずっと長いこと……」
 唐突過ぎる水城の言葉にマヤは驚き、凍り付いたようにその場に釘付けになった。口に手を当てて、無言の叫びを上げる。まさか、そんなはずがないわ! そう思いながら喉の奥に込み上げてくる苦い塊を無理矢理飲み下し、声を絞り出す。
「―どういう意味ですか?」
 水城は本気で言っているのだろうか? それとも、あたしをからかっているだけ? どうして今、ここで、こんなことを? 一体、何のために? マヤは不意に強い疑惑に駆られた。
「特別な意味はないわ。言葉の通りよ」
 言葉の通り……眩暈がしてふらついた。さまざまな感情が交錯して無様に舌が縺れる。
「そ、そんなこと、あるはずがないわ!」
 言い返さずにはいられない。それこそ言葉の通り、あるはずのないことだったのだから。
「どうしてそう思うの?」
 怒っている訳でも、呆れている訳でもない。感情を抑えた穏やかな口調に、一瞬マヤは言葉を失った。乱れた呼吸を整えたあと、慎重に聞き返す。
「……水城さんは何を知っているんですか?」
 困ったように肩を竦めた水城は静かに瞳を伏せ、口元に不可解な笑みを浮かべた。
「当然の質問ね。でも、それは自分で真澄さまにお確かめなさい。―おやすみなさい、マヤ」
 水城が謎めいた言葉を残して出て行き、音もなくドアが閉まったあともマヤは呆然と立ち尽くしていた。不気味な静寂が広がる中、彼女はすっかり根が生えてしまったようにその場を動くことが出来なかった。
 風が吹き、白いレースのカーテンがゆらゆらと揺れた。まるでそれが合図だったように詰めていた息をホウッと吐いて、ノロノロと動き出す。壁際を探りながらスイッチに手を伸ばすと明かりを消し、窓辺へと向かった。
 木の芽がぷっくりと膨らみ始めている。風がやさしくあたたかかった。大きく息を吸い込むと、春らしい、フレッシュな草と土の匂いがした。空には丸い満月が掛かり、地上へと絶え間なく金色に輝く光を送り込んでいる。
 テラスや庭に濃い影が落ちるほど、月の光が明るかった。気怠そうに柱に寄り掛かり、長い黒髪が夜風にそよぐに任せる。虚ろな視線を泳がせて、月明かりに照らされた樹々を見つめた。風に吹かれた新緑が月光にキラキラと輝き、絶え間なくその表情を変えている。
―この風景を見るのは何年ぶりだろう?
 マヤのたったひとりの肉親でもあった母親の春が亡くなった頃、彼女はこの屋敷で長い時間を過ごしたことがある。いや、監禁されていたと言った方が早いかもしれない。身に覚えのないスキャンダルで芸能界を追われたマヤは、速水の屋敷に閉じ込められた。
 芝居をすることを強要され、外出を禁じられた日々。何をする気にもなれず、ただ、時間だけがゆっくり過ぎていくのをぼんやりと感じていた日々。毎日この美しい庭を眺めながら、この屋敷から、大都芸能から、速水真澄から逃げ出すことだけを考えて過ごした日々。
 それはまだ、彼―速水真澄が〝紫のバラのひと〟であると知る前のこと。母を失ったことの哀しみを、全て彼ひとりの罪として憎んでいたときのこと。彼の孤独と隠された本当のやさしさを知り、愛するようになるとは思ってもいなかった、子どもだった頃のこと……。
 反射的に、激しい感情が津波のように押し寄せてきた。まず不安。速水さんと再会するのが怖い。次に怒り。彼はあたしを侮辱し、嘲笑った。決して赦しはしない。彼に侮辱された苦しみは、数年経った今でも心の奥底で燻っている。
 うんと憎んでやりたいところだけれど、それは出来ない。でも、今は愛してなどいない。もう、この恋は終わったのだ。速水さんはこの上なく効果的なやり方で、あたしの愛を徹底的に排除したのだから。
 そう、本当にあたしはもう彼を愛していない。けれど……憎むことも出来なかった。大丈夫、彼に遭遇したってちゃんと対処出来るはず。そうしなくてはならない。それに、会いたくないと思っているのは彼も同じはずだから。

 二年前の出来事なのに、思い出すだけでマヤの胃はキリキリと痛み出した。速水と交わした最後の会話が壊れたレコードのように脳裏で何度も繰り返し再生され、表現し難い痛みが波紋のようにじわじわと胸に広がっていく。

 

…to be continued