prologue
初秋。某日、某夜、都内某所にて。
風采の上がらない中年男がひとり。一升瓶を片手に、熊のように大きな背中を丸めて冷酒をチビリチビリとやっている。髪はボサボサ、髭は伸び放題、靴はかかとが磨り減っているし、着ているものときたらくたびれてヨレヨレの皺くちゃ、いつ洗ったのかさえ分からないようなシロモノだ。
男がのんびりと酒を愉しんでいる前では絶え間なく湯気が立ち上り、食欲をそそる匂いを周囲に撒き散らしている。通りすがりの人間でさえ、出汁の香りに誘われてつい暖簾をくぐってしまうほどだ。白い湯気はゆらりゆらりと揺れながら、夜の闇へ吸い込まれるようにスウッと紛れて消えていった。
男は実に旨そうにグラスの中の酒をゴクリと一息に飲み干すと、唇の端から零れ落ちた透明な雫を乱暴に片手でグイと拭った。トンと小気味好い音を立ててグラスを置いた彼の口から、満足そうな吐息が漏れる。
先ほどから手を休めることもなく忙しなく立ち働く屋台の主に二言三言、言葉を掛けた男は、出汁が程良く染み込んで充分にやわらかくなった大根に箸を伸ばした。眼鏡の奥の丸い瞳が和み、頬の筋肉がフッ、と緩む。
箸を置いた男がこの夜何杯目かもう分からなくなった酒を一升瓶からグラスへ注ごうと手を伸ばした丁度そのとき、路面を仄かに照らす古びた街路灯の下の黒々としたアスファルトに、スラリと細長いシルエットが浮かび上がった。
どうやら随分と背の高い女のようだ。濃紺にピンストライプのシルクウールのパンツスーツは非常にシンプルだが、かなり高そうに見える。スタイリッシュな服装に細身のボディを包み、手にはやわらかな鞣革で作られた小振りのブリーフケースを携えている。
腰まで届きそうな長い黒髪をゆらりゆらりと左右に揺らしながら、女はゆっくりと男の方へ近付いてきた。暗闇に沈む静寂の中で、彼女が奏でるコツコツというヒールの音だけがリズミカルに響き渡る。
女は男の背後まで来ると見えない壁にぶつかったようにピタリ、と足を止めた。辺りは再び白い湯気が緩やかに漂う静寂に包まれる。と、女は身を屈めるや否や、薄く色付いた暖簾をエレガントな仕草でハラリと掻き上げた。
「やはり、こちらでしたの」
背中を丸めた男の後ろ姿を色付き眼鏡越しに捉え、女はほんの少しの安堵と共に小さく吐息を漏らした。
「おや、あんたは……」
振り向いた男もまた一升瓶から手を離し、胡散臭そうに眼鏡の奥からギロリと女を見据えた。ところが女は少しも怯む様子を見せず、事務的に口を開く。
「お久しぶりです。少しお話ししたいことがありますの。よろしいでしょうか」
男は糸のように細めた目を一瞬大きく開くと、無言のまま隣の丸椅子を引き座面を軽くポンッと叩いた。女も何も言わず、無駄のない動作でサッとそこに腰掛ける。男は再び一升瓶を掴み、そろそろとグラスに酒を注いだ。
「あんたの言いたいことは、なんとなく分かるよ」
溢れんばかりに満たした酒をペロリと舌先で舐め取りながら、男はぶっきらぼうに答える。
「まずは、あんたも一杯どうかね」
女は目の前に差し出されたグラスを片手でやんわりと押し戻した。それからブリーフケースを膝の上にのせ、上体を僅かに男の方へ傾ける。
「いえ、今日は止めておきますわ。とても大事な話なんです」
そこで女は一拍置くと、声のトーンを一段落とした。
「あなたにとっても、わたくしにとっても」
男は女の流れるような一連の動作を鋭い眼差しで見つめていたが、耳にした言葉に透かさず反応した。野太い眉が片方、不機嫌そうにピクリと上がる。
「おれたちにとって? イヤ、違うだろう。あいつらにとって、じゃないのか」
指先でポリポリと頭を掻き、些か面倒臭そうに呟く。
「……ええ、確かに」
男の言葉に女は一瞬たじろいだ。が、直ぐに持ち前の冷静さを総動員して態勢を立て直した。
「そうですわね。ですが、このままの状態が続けば、結局我々にまで害が及びますわ。一刻も早く手を打たないと」
上品なパールピンクのマニキュアが光る細い指先で、そっと眼鏡の縁を辿りながら女は言葉を続けた。
「ああ、そんなこたぁ、おれにもよぉ~っく分かってるよ。こっちだって、崖っぷちに立たされているんだ」
男は幾分ずり落ちた眼鏡のブリッジに手を掛け、勢い良くグイと押し上げる。
「崖っぷち?」
色付き眼鏡の奥の瞳を瞠って女が訝しげに言葉を繰り返す。その様子を認めた男はニヤリと笑みを漏らすと、何でもないことを話すように淡々と言葉を続けた。
「そうだ。実は明日から三日間稽古を休むことになってな」
確かに稽古が上手くいっていないとは聞いていた。だがしかし、稽古を休むことになるほどの問題が持ち上がっていたとは……。如何に冷静沈着な女と雖も、このときばかりは驚きを隠すことが出来なかった。
「稽古を? 三日間も? 試演はもう間近ですのに!」
一体どういうことなのだろうかという想いから、女は少しばかり語気を荒げてしまった。
「ああ。間近も間近。ここまで来ちまったからには、今さら後戻りしたくはないんだがね。北島があの調子じゃ、どうしようもないんでね」
ところが男は小さく肩を竦めると、さらに淡々と言って首を振った。女はズイと大きく身を乗り出して、男に詰め寄る。
「何があったんですの?」
マヤの様子がおかしいということは分かっていた。そしてもちろん、上司の様子がおかしいということも女には分かっていた。その根底に横たわる、大いなる原因も。
「何が、だって? それはあんたも薄々勘付いているんじゃないのか」
男はくぐもった声で意味ありげに含み笑いを漏らした。グラスに残った酒をキュッと飲み干したかと思うと、再びトンと軽い音を立ててカウンターに置く。
「勘付いている?」
原因は不確かで曖昧な模様を描きながら、複雑に絡み合っている。単純なひと言では片付けられないほどに。
「まぁ~ったく、イライラさせられるふたりだよな。紫のバラが聞いて呆れるぜ」
男がポロリと零した『紫のバラ』という言葉に、女は戸惑いを悟られまいと視線を逸らせた。
「〝紫のバラ〟……わたくしには何のことだか」
男のニヤニヤ笑いが見る間に顔中に広がっていく。彼は女の反応を逐一確かめながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「今更とぼけたって、何にも始まりゃしねえよ。おれはなぁ、いろいろと感謝してるんだぜ。雨月会館しかり、『イサドラ』の初日しかり、『忘れられた荒野』の初日しかり。あの台風の日、もしあいつが現れなかったら、連中だってあそこまで演れなかったと思ってる」
次々と繰り出されるジャブを受け止めながら、それでも取って置きの種明かしを待つ子どものように、女は男の言葉をひと言たりとも聞き逃すまいと沈黙を守り続ける。
「だからおれはここいらで、ちょいとばかり礼をさせてもらおうと思うんだ」
そこで間を取るように一旦言葉を切ると、男は女が疑問を確信に変える言葉をことさらのんびりと吐いた。
「大恩人の〝紫のバラのひと〟に、な」
しばしの静寂。男と女の間の緊張を和らげるように、白い湯気がゆらりと揺らぐ。どこかで野良犬が夜に向かってウォ〜ンと吠えた。
「やはり―気付いていらっしゃったんですね。わたくしだけかと思っておりましたのに」
ついに女は観念したというように、細く吐息を漏らした。
「あんなに判り易い行動をしているのに誰も気付かないなんて、あんたたちの周りの人間は余程ボンクラばかりなんだな」
確かに……男の言うことは一々的を射ている。だがいくら自分でも常日頃から思っていることであったとしても、他人から言われると何故かムッとするものだ。それでも、オウムのように繰り返さずにはいられなかった。
「ボンクラ―」
女の言い方が笑いのツボに入ったのか、ぷっ、と小さく吹き出すと、男はまたグラスに酒を注ぎ口に運んだ。喉仏が生き物のように大きくしなる。
「つまり、手短に言うと、あんたもおれも困ってるってことだ」
そう。〝困っている〟どころではない。上司のお陰で社内の空気はピリピリと張り詰め、一触即発、爆発寸前。あまりの居心地の悪さに、今にも酸欠で窒息してしまいそうだ。
「まぁ、それはそうですわね。困ってるなんてもので済めばいいのですけれど、こちらもやはり崖っぷち、なんですわ」
いかにも困り果てているという風に女は眉を寄せ、些か大袈裟に溜め息を吐いた。
「と、いうことは、おれたちの利害は一致していると考えて良いのかな」
口元を拭ったその手で顎髭を撫で付けながら、男はさも面白そうに言った。
「ええ」
大きく頷き即答した女に、男はヌッとにじり寄る。
「よし。おれにひとつ良いアイディアがあるんだが……どうだい? あんた、ノるかい?」
一刻も早くこの諸問題を解決してくれる、魔法のような方法があるのなら、直ぐにでも教えて欲しいものだ。
「良いアイディア、と申しますと?」
女はゴクリと唾を呑み込んだ。自分がこれまで何年掛かっても成し遂げられなかったことを、この男はどうやって解決しようというのだろうか。もしも今直ぐそれが叶うなら、悪魔に魂を売り渡したって構わない―そう思ったのが顔に表れでもしたのか、男はクスリと小さく笑った。
「ふたりが被る〝仮面〟だよ」
突拍子もない言葉に、どんなときでも崩れない女の鉄壁の平常心もぐらつき始める。
「何ですって? 仮面?」
〝仮面〟なら、上司はいつも被っている。いついかなるときでも。彼の仮面が剥がれるのは、あの子の前だけに限られていた。でも、それが一体何だというのだろう……?
「ああ。上手くいきゃあ、ふたりはハッピーエンド。で、あんたもおれもハッピーエンド、となるわけだ」
男はいたずらっぽく瞳を輝かせて、指先でトントンとリズミカルにくすんだ木肌を叩いた。
「勝算は?」
実に荒唐無稽な話だが、この男ならどんな突飛なこともやりかねない。奇人変人が多いと言われている演劇界でも、異端児としてその名を知られている鬼才なのだ。
「まぁ、良く見繕っても、五分五分と言ったところだな」
五分五分なら可能性はゼロではない。制作事務所から見限られ、芸術祭への参加も危ぶまれていた男は、ずぶの素人達を率いてその芸術祭で賞を獲るほどの実力の持ち主だった。
「―もし、上手く行かなかったら?」
そう。全ては最悪の状態のままジ・エンド。未来は暗闇。安息の日々は終ぞ望めそうにない。
「そいつは神に祈るしかないな。どうだい、やってみるかい?」
ノるかそるか……どちらにしても、これ以上悪く成りようがないではないか。それに、元々選択肢はふたつにひとつだ。さぁ、どうする?
「…………ええ」
…to be continued