真澄は広いシャワー室に足を踏み入れ、シャワーの蛇口をいっぱいに捻った。真っ白な湯気が身体を包み、ガラスの壁を曇らせる。迸る熱い湯が肌に打ち付けたが、タイル張りの床を踏みしめる足の裏はひやりと冷たい。
 思い切り伸びをする。すらりとした身体を伝って、湯が川のように流れ落ちていった。お気に入りの薫りがほんのりと漂う石鹼で身体を洗い、髪を洗って、手短にシャワーを終えた。バスローブを羽織り、タオルでザッと髪の水分を擦り取る。それから鏡に向かって髭を剃り始めた。

 雨? 雨の音? 昨日はあんなに綺麗な満月だったのに……あ、止まった。雨じゃなかったのかしら? ふっ、と誰かが動く気配がして、薄暗かった部屋に明るい朝の光が射し込んできた。眩しい。まだ眠いのに、もう朝が来たのだろうか?
 ギシリ、と音がして大きなベッドが人の重みで少し歪んだ。と、思うと頭の両脇が軽く沈み、光が遮られる。嗅ぎ慣れた香りが鼻孔を甘く擽り、安心感からまた深い眠りの淵へ落ちそうになった時、耳元に小さく囁く声が聞こえた。
「マヤ」
 ああ、やっぱり速水さん?
「……ん……」
 マヤはなんとか声を出そうと努力を試みた。でも、ダメ。眠くて目を開けられない。
「マヤ」
 真澄は奇妙に掠れた声で、もう一度彼女の名前を呼んだ。
「ぅうん。もう少し眠らせて」
 目覚めたくないという想いから無意識に顔を背け、無理矢理声を絞り出す。
「朝だぞ。起きるんだ」
 指先で軽く頬を撫でられて、うっすらと目を開ける。ベッドに腰掛けていたのはやはり真澄だった。丈の短い黒いバスローブの胸元はV字型に大きく開いていて、力強い脚も剥き出しになっている。シャワーを浴び、髭を剃ったばかりの彼は、全身から男らしさを発散させていた。クラクラと眩暈がし、マヤは再び目を閉じた。
「今、何時?」
 片手を額に載せ、ぼんやりと問い掛ける。
「もう、七時だぞ。今日はお義父と一緒に朝食を摂る約束をしていたんじゃなかったのか?」
 呆れたような彼の声が降ってくる。
「え~~~、もうそんな時間なの? 速水さんのバカバカ。どうしてもっと早く起こしてくれなかったのよ!」
 マヤは黒い瞳をパッと大きく見開き、慌ててガバッと起きあがった。その変わり身の速さに真澄は思わず苦笑いした。
「お起こししましたよ、何度も。だが、きみはグッスリ眠っていて、ちっとも目を覚まさなかったじゃないか」
 両手を広げ、肩を竦めると半分からからかうように彼が言った。
「だ、だって……速水さんのせいで、殆ど眠ってないんだもの」
 寝坊したのは真澄のせいで、自分はちっとも悪くないと言わんばかりの強さで訴える。
「そいつは悪かったな」
 しかし、彼のその口調は、ちっとも悪いと思ってはいないようだ。
「速水さんは眠くないの?」
 それでも彼女はぷぅと頬を膨らませ、目を三角にして抗議することは忘れなかった。
「生憎、おれはきみみたいにお子様じゃないからな」
 マヤはムッとしたが、直ぐに真澄の瞳が可笑しそうに煌めいているのに気付いた。
「あたしは速水さんよりもず~~っと若いから、睡眠時間がたっぷり必要なんです!」
 ところが、このイヤミは少しのかすり傷も残さず、彼の片方の耳からもう一方の耳を通過したようだった。
「分かった分かった。さあ、きみも早くシャワーを浴びておいで」
 真澄は軽くマヤの顎に手を添え、自分の方を向かせた。
「―キスしてくれないと、目が覚めない……」
 どうしてそんなことを言ったのだろう。彼をちょっと困らせたかったのかもしれない。いつもなら絶対に言わない言葉をマヤは口にしていた。
「その言葉、後悔するなよ」
 真澄は笑いながらそう言うや否や、彼女の頬から首へ、首から胸へ、さらには小さく可愛らしい臍の辺りまで、ゆっくりと熱い手を這わせた。それから身体を屈め、想いの籠もったキスをした。マヤの唇は熱く反応し、彼が顔を離した時には、彼女の頭はまたしてもクラクラしていた。
「どうだ、目が覚めたか?」
 顔が火照って熱くなる。その様子を見て、真澄の唇に皮肉な笑みが浮かんだ。マヤが居心地の悪い想いをしているのを楽しんでいるのだ。彼女は何食わぬ顔をしようとした。だが、その決意も彼の次のひと言で、脆くも崩れ去ってしまった。
「どうした? まだ目が覚めないのか? それじゃあ、もう一度」
 熱い手がマヤの両頰を挟み、ふたりの視線が甘く絡み合う。彼女の心臓は今にも爆発しそうなほどドクドクと鳴り響き、激しく暴れ出した。
「お、お陰様で、すっかり目が覚めました!」
 真澄の大きな手に挟まれたマヤの頬からシーツに隠された白い胸元までが紅く染まっている。
「それは良かった。おはよう」
 ニヤリと笑った口元が、何か良からぬことを企んでいるように歪んだ。
「オ、オハヨウゴザイマス」
 彼女が茹でダコのように真っ赤になって湯気を立て、恥ずかしそうに俯く様子に、真澄は目を細めて口をキュッと引き結んだ。それから、ふと楽しそうに目を光らせ、当て付けっぽく呟いた。
「バスルームまで抱いていこうか?」
 マヤは思わずベッドの中で小さく飛び上がり、身を引いた。
「ケ、ケ、ケ、ケッコウです」

 慌ててシーツを手繰り寄せてグルグルと身体に巻き付け、彼が腰掛けている方と反対側の縁から滑り降りる。寝不足と起き抜けの熱いキスで足はすっかり萎え、ヨロヨロとよろけながらバスルームへ向かった。ところが直ぐにシーツに躓いて転んでしまい、思わず自分で笑ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、真澄は幸せそうな笑みを浮かべた。

 

…to be continued