* 昼 *

 

 桜の花の見頃は案外短い。
 満開だ、と思ったらあっという間に散ってしまう。

「おい、花見に行くぞ」
 真澄の誘いはいつも突然だ。
 ふたりが恋人として付き合うようになってからも、仕事に忙殺されている彼にマヤの方から電話を掛けたことはない。もちろん、彼の方から掛けてきたのだって両手の指で事足りてしまうくらいなのだ。それでも、常に彼から渡された携帯電話が高らかに着信音を奏でるのを心待ちにしている自分がいたりするのは否めない。
 今日の仕事は午前中に終わってしまった。午後は特に予定も入っていなかったマヤは抜けるような青空に誘われて、丁度見頃となっている満開の桜の花を見に、ひとりでぶらりと散歩にでも出ようかと思っていたところだったのだ。
 玄関で靴を履いている時、なるべく肌身離さず持つようにしている件の携帯が小さな振動と共に待望の〝トロイメライ〟をやさしく奏で始めた。この曲は彼女にとって懐かしい想い出を蘇らせてくれる曲だ。まだ真澄のことを〝ゲジゲジ〟の〝冷血漢〟だと思っていたころ、彼はピアノでこの曲を弾いていた。
 ボンヤリとそんなことを思い出している内に、メロディは一巡しそうになっていた。慌ててポケットから取り出して電話に出ると、冒頭のように花見への彼からの突然の誘いだったのだ。
「伊豆の別荘へ向かう途中にある、伊豆高原の桜並木が見事なんだ」
 しっかりと握り締めた携帯から聞こえる、いつもより弾んだ真澄の低い声がマヤの鼓膜を甘く擽った。
「花見って、いつ行くんですか?」
 玄関先に腰を下ろしたまま、呆然と訊ねる。
「今からだよ。すぐに迎えに行くから支度をしておくんだぞ」
 この強引さは昔から変わらない。彼はいつだって人の気持ちや予定なんてお構いなしで、自分の思うようにどんどん事を運んでしまうのだ。
「えっ! 今からですか?」
 彼女は驚いて思わずその場で立ち上がり、意味もなく背筋をピンと伸ばすと直立不動の姿勢を取った。
「そう、今からだ。何だ、他に用事があったのか」
 自分も今まさに花見に行こうと思って靴を履いたところだったのだ。しかも、出来れば速水さんも一緒だったらもっと楽しいのに、などと思っていた。不思議な感覚に包まれ、マヤは一瞬ボーっとしてしまった。
「―いえ、そういうわけじゃないんですけれど……」
「随分歯切れの悪い返事だな」
 直ぐに快い返事が貰えると思っていたのだろう、真澄は声のトーンをさらに低くして、幾分不機嫌そうにボソリと呟いた。眉間に皺を寄せている彼の顔が目の前に浮かび上がってきて、彼女は急いで否定する。
「違うの! あたしも今、桜を見に行こうと思って出掛けるところだったのよ。そこに速水さんから電話が掛かってきたから驚いちゃって……」
 パニック状態に陥りシドロモドロで言い訳するマヤに、真澄はフッと浅く息を吐いて答えた。
「そうだったのか。じゃあ出掛ける準備は出来ているんだな?」
「ええ、一応」
「よし、それならすぐに出発しよう。そのまま外に出て」
 訳が分からないまま言われたとおりに外に出ると、電話で話をしている相手がマヤもよく知っている車に寄り掛かって立っていた。
「速水さん!」
 その大きな驚きの声は、携帯電話を通したものと直接とダブルの効果で真澄の耳に届く。
「声が大きい」
 笑いながら携帯を耳から離して胸ポケットにしまう。彼が両腕を大きく拡げると、マヤはまだ携帯を耳に当てたまま魔法に掛かったようにフラフラと吸い寄せられ、真澄の腕の中へと飛び込んでいった。
「どうして? 会社は?」
 大きな瞳いっぱいに疑問符を浮かべ、じっ、と彼を見上げる。
「花見休暇だよ」
 彼女を緩く腕に抱いたまま、真澄はしれっとした顔で事も無げに言ってのけた。
「なんですか、それ」
 こういう時の彼は、どこかいたずらっ子のような表情を見せる。その顔を見て文句を言っても無駄だと思ったマヤは、半分呆れたように答えた。
「こんなにきれいに桜の花が咲いているんだ。少しくらい仕事を休んで見に行ったって、バチは当たらないだろうさ。それに、きみはおれに春を届けてくれるんだろう? 花見に春の女神がいなくてどうする」
 そう口にしたかと思うと、真澄は念を押すように彼女の頭の天辺にそっと口づけた。
「伊豆まで?」
 百歩譲って花見をするのは良いとして、伊豆まで足を伸ばそうなんて本気で言っているのだろうか、とわざわざ声に出して確認する。
「そう、伊豆まで。イヤか?」
 どうしてそんなことを訊くんだと、彼は大袈裟に眉を上げてみせた。
「……イヤじゃない。嬉しいけど、お仕事本当に大丈夫?」
 先日の出来事がまだ真新しい記憶として残っているマヤは、どうにも不安が拭いきれないのだ。
「必要な時に仕事を休めないようじゃ、社長でいる楽しみがないだろう?」
 とは言うものの、実際には仕事の鬼である大都芸能の若社長が会社を休もうとするなど、滅多にあることではないのだが。
「水城くんにはもう怒られてきたよ。〝社長、いい加減にして下さいませ〟ってね」
 はははは、と軽く笑い飛ばしてさらに強く彼女を抱き寄せる。
「速水さん!」
 無駄だと思いつつ、マヤは抗議の声を上げた。
「大丈夫だよ。今日の午後の会議が急にキャンセルになったんだ。大きな仕事はそれだけだったからな。それに何と言っても、この満開の桜を逃すのは惜しいじゃないか」

 

 

…to be continued