星空~Triple Bill

 

 彼女は、陽炎のような人だった―。

 容赦なくジリジリと照りつける真夏の太陽が、路上のアスファルトを灼いている。増幅されていく輻射熱でコールタールは溶け出し、思いのまま路面に黒い染みを広げていた。ジージーと五月蝿いくらいに降り注ぐ蝉時雨は、さながら肌に突き刺さるようだ。
 連日、うだるような暑さが続いていた。気温計は朝から軒並み三十度を指し、湿気を帯びたねっとりと重い大気が身体にまつわりつき、肌はじっとりと汗ばむ。夏休みに入って既に十日が経過していたが、僕には普通の高校生のような生活は望むべくもなかった。
 義父の思い通りになる後継者となるために、小学生のころから放課後は歴史、経済、法律、経営学などを専門家らによって叩き込まれ、休日ともなれば社交に必要なゴルフ、乗馬、スキー、ヨット、ダンスなどを習得させられた。
 高校に入学してからは、自ら望んで積極的に義父の手伝いを始めた。そのため、僕の周りを取り囲むのは皆、大人たちだった。その中で、僕は彼らと同じように対応することを要求される。もちろん、高校に行けば同じ年頃の人間はゴロゴロいたが、特に友人を作ろうという努力もしなかった。
―他人を信用するな
 義父に言われる前から身に染みていた。あの暗い海の中に沈んだ日から、嫌というほど。誰かに心を許すということは、自分の全てを相手に委ねるということだ。そんなことをすれば、いつかは必ず裏切られる。
 期待が大きければ大きいほど、その分だけ落胆も大きくなる。手酷い仕打ちを受けて悲嘆に暮れるより、最初から他人と関わらなければリスクだって最小限に抑えられるということは、火を見るよりも明らかだ。
 それに、人と関わるのも仕事上のことだと割り切れば、どんなことでも出来そうだった。何気ない表情や態度、言葉の欠片から相手が望むものを素早く察知し、タイミング良く提示する。所謂、一種の心理ゲームだ。
 絶え間なく続くそのゲームに勝利すれば、それなりの報酬が手に入る。狐と狸の化かし合いのようなバカバカしい世界で、上手く生き残ることが出来るだろう。そして、いつの日か義父・英介の息の根を止める。
 彼から何もかも奪い去ること―殊に、彼が自分の命よりも執着している『紅天女』を手中に収め、滅茶苦茶にぶち壊すということ。すなわち、義父と『紅天女』に対する憎しみと復讐心が、この頃の僕の生きる支えとなっていた。
 僕が彼女に出会ったのは、そんな毎日に嫌気が差し始めていたある夏の日の午後のことだった。朝倉の目を盗んで外出に成功した僕は、行く当てもなく炎天下の街をうろつき、公園やプラネタリウムで時間を潰していた。
 プラネタリウム―子どものころから独りになりたいときは、自然とこの場所へ足が向いていた。ゆったりとしたリクライニングの座席に深く腰掛け、白いドーム型の天井をぼんやりと仰ぐ。視界は次第に闇に覆われ、投影が始まると数多の星が輝き出す。
 宇宙空間を漂うような不思議な浮遊感。悠久のときをゆったりとたゆたう内に弛緩していく感覚。自分の悩みなど、この広い宇宙に比べたら全て小さなことに過ぎないと思わせてくれる。悔しさも、哀しさも、淋しさも、全てが星の瞬きの下で浄化されていく。
 プラネタリウムは僕が気持ちをリセットして、また一から始めるために必要な儀式を行う神聖な場所だった。心を空っぽにして、自分を取り戻す。だから、いつもここへは独りで来た。ここは、僕だけの秘密の場所だった。
 上映が終わると、僕は再び強い陽射しが照りつける屋外に弾き出された。宇宙空間をゆらゆらと彷徨っていた意識は一瞬にして、夜の夢幻世界から真昼の現実世界へと呼び戻される。あまりの眩しさに額に手を翳し、目を細めた。
 その女性は白いパラソルを持ち、白いサンドレスを着て、熱く焼け焦げたアスファルトの上に優雅に立っていた。蝋燭のように白く華奢な手足が真夏の陽射しを受けてどこか艶めかしく、それでいてあえかな様子を見せる。
 ガラス細工のように触れたら壊れてしまいそうな儚さは危ういまでに繊細で、真夏の陽炎の中をふわふわと舞う蝶と見紛うほどだった。もう少しで白昼夢を見ているのではないかと錯覚してしまいそうだ。
 真夏の強い陽射しの下、ピリピリと張り詰めた大気の中で、彼女の周りの空気だけが甘やかなやわらかさを帯びている。それどころか、身体も脳みそも溶けてしまいそうなほどの猛暑を感じさせることさえなく、彼女はひとり、凛とした涼しげな風情で佇んでいた。

 

…to be continued