真澄・マヤ
赤々と燃え盛る夕陽が頭上に広がる空一面を緋色から深紅、金色にと染め上げ、やがてやわらかなパステル調の色彩に変えて、緩やかに昼と夜が交替した。
春の宵は静かに更けていく。
やわらかく、なめらかな大気を纏った丸い月が中空に姿を現し、地上にやさしい光を投げ掛けている。満開の桜並木はその光を受けて朧気に白く輝き、花明かりがまるで自然が作り上げた航空灯火のように見えた。
聖が短い挨拶を残して屋敷を去したあと、彼女はぼんやりと立ち尽くして宙を見つめていた。蒼白い月の光を浴びたその艶やかな黒髪は、深い藍色にも見える。
漆黒の瞳には淡く輝く月が映っていた。風が吹くたびに彼女の髪はやさしく攫われ、それだけが自由な意思を持つ美しい生き物のように優雅に靡いている。
心地良い夜だった。
月も、星も、風も、樹々も、草花も、何もかもが春の夜気の中で生き生きと見えた。静寂の中を漂うように風が吹き過ぎると、痺れるような甘い感覚が全身を駆け抜けていく。彼女は春の目覚めを全身で感じていた。
幸せと、やさしさと、やすらぎに満ちた時間。
愛と、喜びと、慈しみで満たされた空間。
思わずほうっと、溜め息が漏れる。美しすぎる夜だ。春がこんなにも素敵だなんて、こんなにも素晴らしい夜を過ごすことが出来るなんて、誰が想像出来ただろうか?
春。桜。夜。月。風。
五感で貪欲に全てを味わおうと、彼女は大きく両手を広げた。次第に神経が研ぎ澄まされていく。そして、そのまま数分。エネルギーが身体の内に満ちていくのが分かる。
彼女はふと、この贅沢な瞬間を与えてくれた人を心の中に思い描いた。それだけで、心の奥にやわらかな灯りがともる。この世で一番、誰よりも強くて、誰よりもやさしい人。
その人が自分を愛してくれている。慈しんでくれている。これほど幸福に満ちた喜びが他にあるとは到底思えない。幸せのあまり目が眩みそうだ。
…to be continued