英介~短冊が見せた夢

 

 こんな夢を見た。


 空はしなやかに闇の衣を纏い、宝石のような目映さで輝く色とりどりの星々をその裳裾まで優雅に広げている。ぐるりと自分を取り囲む三百六十度の視界の中に、その輝きを遮る無粋な人工の灯りはどこにも見当たらなかった。

「――ここは、どこだ?」

 随分と嗄れた声が自分の喉から押し出されたので、一瞬ギョッとした。驚きのあまりひゅうっと鋭く息が漏れ出た口元を、慌てて手のひらで覆う。

「儂は一体………」

 やはり、唇から零れるのは先ほどと同様の嗄れた声だ。口元を抑えていた手を恐る恐る目の前に翳すと、老人特有の醜い皺と染みに覆われた無骨な手が星明かりに浮かび上がった。改めてギョッとする。
 狐につままれるとは、まさにこのことを言うのだろう。一体、今は“いつ”で自分は“どこ”にいるのか、まるで検討もつかない。唯一分かるのは、どうやら自分は小高い丘の上に立っているらしい、ということだけだ。
 訳が分からぬまま、震える指先をキュッと握り締める。溜め息混じりに開いた汗ばんだ手のひらをそのまま顔の方へ滑らせると、酷く皺の寄った頬と弛んだ皮膚に行き当たり、漸くああ、そうか、と納得する。

 これは、夢なのだ。

 そうだった。昨夜は確か、あのふたりがわざわざ屋敷まで挨拶に来たのだ。今まで後継者として育ててきた義理の息子と、あの女が育て上げた新しい“紅天女”である娘のふたりが、揃って自分の目の前に現れた。
 期待を裏切り、願ってもない良縁を破談にした息子に勘当を言い渡したのは、つい先日のことだ。桜の花びらが儚くもはらはらと舞い散る春の終わりに、あの男は突然反旗を翻した。
 それまでも侮ることが出来ない男ではあったし、そうなるべく徹底的に仕込んできたのだけれども、表面上は至って従順で、結局は自分が敷いたレールの上を歩いているのだと高を括っていた。
 だが、現実はそうではなかった。あの男は忠実な子羊の仮面を被りながら、虎視眈々と狙っていたのだ。この、自分の支配の下から逃れることを。いつの日か、胸に秘めた復讐を果たすことを。
 けれど、あの男が本当に狙っていたのは――自分が喉から手が出るほど欲しても、いくら望んでも、決して手に入れることが出来なかったもの。この世でただひとつの、永遠の美しい幻。

 湿度を含んだ風が山から山へと渡るたびに触れ合う笹の葉が、しゃらしゃらと歌うように軽やかな音を立てた。忘却の彼方へと置き忘れてきてしまった遥か遠い昔、まだ何も知らなかった少年の頃によく聴いた懐かしい音色だ。
 その風が、深い皺が刻まれた頬をスウッと撫で上げていく。風に誘われるまま仰ぎ見た視線の先には落ちてきそうなほどの、いや、身体ごと吸い込まれてしまいそうなほどの天の川。
 こんなに美しい天と星との饗宴を眺めるのは、子供の頃以来だ。ああ、そうじゃない。かつて訪れたことのある場所で見た宙も、今と同じくらい美しかった。そうだ、あのとき念願叶って漸く訪れることの出来た、梅の里。

 なるほど、これは夢なのだ。

 だとすれば、もう一度行きたいと願っている場所に自分は立っているのではないのだろうか。そう思って辺りを見渡すと、小高い丘の下、鬱蒼と生い茂る竹林の中に一本の細い道が続いているのが見えた。
 まるで、自分がそこを通るのを待ち侘びてでもいるかのように、幾重にも折り重なる笹の葉が風に靡いてふるふると震えている。この深い竹林に囲まれた小径の行き着く先は……。
 自らの生涯を懸け、ただひたすら追い求めていた“紅天女”。その誕生の場となった山間の小さな村里は、あの日、繰り返し夢想していた通りの静謐さと荘厳さで自分を迎えてくれた。
 もう二度と、生きている間に自分の目で見ることは叶わないのだと、自分の手で抹殺してしまったも同然の美しい天女の面影が胸を過ぎるたびに、自分自身の愚かさを責め続けて生きてきた人生は虚しいものだった。
 そうして、長い年月を生きていた末、物語の中で語られていたように、禁忌を犯したものは手酷い罰を受けるのではないかと半ば恐れ、半ば熱に浮かされながら訪れたあの場所で、夢にまで見るほど乞い焦がれた梅の樹の化身に漸く再会することが出来たのだ。


――精神にとって、可能な忘却などはない。幾千もの出来事が我々の現在の意識と精神上の秘密の刻印との間に、薄いヴェールを差し挟むかもしれない。しかし、ヴェールが掛かっているにせよ、そうでないにせよ、刻印は永遠に残るのだ――


 そう言ったのは誰だったのか。そう、魂に刻み込まれた罪の証を消し去ることなど出来はしない。犯した罪の深さに、大きさに、重さに、戦きながら生き続けていかなければならない。
 どんなに忘れ去ろうと努力しても、刻印は決して消えたりしない。刻印は封印されたと見せかけて意識の隙間に忍び込み、贖いきれない恐ろしい罪を白日の下に曝そうと息を潜めて待ち構えている。

 この卑小な存在が赦される日など、果たしてあるのだろうか。

 

…to be continued