風、薫る季節。
 山、笑う季節。
 海、躍る季節。

 日頃、どんよりとくすんだ灰色に沈んだ街で暮らしていると、ある日突然、海や山が恋しくなる。子どもの頃、空き地やグラウンドで陽が暮れるまで真っ黒になって遊んでいた時のことを懐かしく思い出すからだろうか?
 特に、この季節は殊の外空気が澄み、新緑が美しく輝いているからそう思うのかもしれない。けれども、単に海を見るためだけに、わざわざ伊豆にまで足を伸ばそうなどと考えるようになったのは、やはり、彼女の影響が大きいからなのかもしれない。
 彼女―そう、おれが運転する車の助手席で、まるで遠足に出掛ける子どものようにはしゃぎ、身を乗り出さんばかりに大騒ぎして窓の外を眺めている、最愛の妻のせいだ。

 頬に当たる陽射しがあたたかい。ぬくぬくとした微睡みの中で感じる、何とも言えない心地よさ。ああ、まるでふわふわとした雲の上を歩いているようだ、と思っていたら、ふわり、と大気が大地を掠めるが如く、閉じた瞼に、唇に、やわらかなぬくもりが微かに触れた。
 これは確か……馴染みのある感触に引き戻され、未だ夢と現の狭間をぼんやりと漂う意識の底から抜け出そうと試みる。もう少しで抜け出せそうだ、と思ったとき、やさしく、せつなく、胸の奥をキュウっと締めつけるように擽る甘い香りが鼻先を捉え、愛しい人のまろやかな声がふるふると鼓膜を震わせた。
「速水さん、おはよう」
 ああ、そうだ、この声。こんなにも甘酸っぱい響きだったろうか?
「速水さん、起きて!」
 ううん……と、小さな抗議の声がおれの口から漏れる。まだ、目覚めたくはないのだ。あたかも自分は天国にいるような、そして傍らには可愛らしい天使が控えているような、そんな微睡みの中から抜け出したくは……。
「ねぇ、速水さんってば」
 小さな手がニュッと伸びてきて、ユサユサと身体を揺すられる。おい、ちょっと待ってくれ。おれは今日からの休みを勝ち取るために、昨日も深夜まで働いていたんだ。連日連夜の午前様だぞ。もう少し、眠らせてくれないだろうか。
「すっごく、良い天気なのよ」
 ああ、分かっているよ……起きたいのは山々だが、ダメだ、もうちょっとだけ寝かせてくれ。
「もうっ。今日から三日間は、あたしの言うこと何でも聴いてくれるって言ったじゃない!」
 そんな約束をした憶えは……ああ、そうだった。この間のケンカのあと、そういう展開になったんだったな。でも、もう、少し……だけ。意識がふっと、遠退きかけたそのとき。
「むぅもぉぉぉぉ~~~~~」
 と、どこか遠くで牛が啼いたのかというような声が聞こえたかと思うと、突然、呼吸が苦しくなった。
「むぐ、うっ……」
 慌てて目をこじ開ける。すると、愛してやまない我が妻がおれの鼻を指で摘み、おれの唇をその愛らしい唇で塞いでいた。これは何ともまた―随分と嬉しすぎるモーニングコールではないか。
 ホンの一年前までは、こんな目覚しがあろうとは想像だにしなかった。毎朝こんな風に目覚められるのなら、何度でも朝を迎えたいと思う。だがしかし、鼻と口を塞がれたのではさすがのおれも息が出来ない。
 眠りと目覚めとの曖昧な境をウロウロと彷徨っていたはずの真澄の意識は、シャキ~ンという効果音と共に瞬時に覚醒し、攻撃は最大の防御、とばかり早速反撃を開始した。
 マヤの後頭部に手を廻して自分の方に引き寄せるや否や、艶やかな唇を捉えて己の欲望が望むままに貪る。ビクン、と怯む彼女の舌を巧みに誘い出し、執拗に攻め続けるとマヤの口から甘さを含んだ微かな吐息が漏れ始めた。

 ついに真澄は彼女の二の腕を掴むとそのままベッドの中に引き摺り込み、マヤの白い肌が現れる度に抵抗をキスで抑止しながら服を脱がせ始めた………。

 

…to be continued