人はいつの日か、旅立ちの日を迎える時が来るのだろう。それが遅いか早いかは、人によって違うけれども……。

 その日の夜遅く稽古から戻ってきたマヤを、真澄や英介を始め屋敷の者が皆揃って待ち構えていた。彼女は速水邸に一歩足を踏み入れるや否や、居間のソファに腰を落ち着ける間もなく、真澄の運転する黒塗りの車に乗り込む羽目になった。
 さっぱり訳が分からないまま、あれよあれよという間に助手席に押し込まれる。理由を説明することもせず、無言のまま車を発進させた彼は屋敷を出て直ぐに車が赤信号で止まった時、やわらかな革のシートの背に寄り掛かり、半ば閉じた目でマヤを見た。
「少し長いドライブになる。きみは眠っていて構わないよ」
 彼女は当惑して眉を顰め、真澄を見つめた。
「どういうこと?」
 その問いに、彼は答えなかった。信号が青に変わり、車が静かに走り出す。真澄の幾分青ざめた端正な横顔が、鈍いオレンジ色に光るランプや対向車線のライトに浮かび上がっては消えていった。
 車内は暖房が効いていたが、それでも走り続けている内に足元から冷えが忍び寄ってきた。車に乗り込むとき、朝倉からブランケットや軽食を持たされていたので、身体を冷やさないようにマヤはやわらかなカシミアにその身を包み込んだ。
 どのくらい走ったのだろう。相変わらず何が何だか分からないまま、車は高速道を彗星の如く走り抜けていく。この車は先の見えない夜の闇の中を、一体どこへ向かっているのだろうか?
「どうしたって言うの、速水さん。どこに向かっているの?」
 ふたりきりの静かな車内に、彼女の声が妙に大きく響く。真澄の顔に引き攣った笑みが浮かんだ。
「ああ……向こうに着いたら話すよ」
 〝向こう〟とはどこなのか。いつになく歯切れの悪い彼の様子をマヤは不思議に思い、もう一度訊ねた。
「ねぇ、一体どうしたの?」
 真澄はハンドルに片手を預け、フロントガラスの向こう側の暗闇に浮かび上がるルビーのようなテールランプを見つめている。彼女はじっと返事を待ったが、彼はそのまま何も言わず黙っていた。
 その後に続いた沈黙は果てしなく長いものに思えた。地の果てまで行く気だろうかとマヤが思ったとき、やっと真澄は口を開いた。ところが酷く慎重な口調で、心までは読めなかった。
「頼むから、とにかく今は眠るんだ」
 彼女はそれ以上彼に何かを問うことは止めた。その代わり、窓の外を流れ行く街の灯りに視線を移した。ここしばらくの稽古の疲れと、車の静かな振動音と、程好いぬくもりに次第にマヤの瞼が重くなる。

 

…to be continued